日本の伝統ロボット「からくり人形」

茶運び人形 ロボットの歴史

「からくり人形」とは

現代のロボット技術はアメリカなどの欧米諸国を中心に誕生しました。

しかし、海外から日本にロボット技術が紹介される以前から、日本国内では「からくり人形」と呼ばれる独自の機械技術が発展していました。

からくり人形については、日本最古の歴史書「日本書紀」で、台車に乗った仙人の人形が常に一定の方向を指し示す「指南車」という機械仕掛けの人形が、国内で最も古い記録と言われています。

指南車の模型
参照:Wikipedia

平安末期の「今昔物語集」には、桓武天皇の子である高陽親王がからくり人形を作った逸話が収録されています。

「今昔物語集」には、高陽親王が、器の水が一杯になると顔に水がかかる仕組みのからくり人形を作り、村の水不足を防いだという逸話が残っている。
参照:Wikipedia

「からくり人形」の発展

平安時代から室町時代にかけて、小さな人形をあやつる傀儡師(かいらいし)が、寺社で人形を使った芝居を行われるようになりました。

八幡古表神社の傀儡子の舞と相撲
各地の寺社で、参拝者に対してからくり人形による芝居を提供するようになった。

16世紀の戦国時代・安土桃山時代になると、西洋の機械時計で使われていた歯車やカムなどの技術が応用され、からくり人形は大きく発展しました。せ

Mechanical Marvels—Planetary Clock with Automata Figures: The Imser Clock, ca.1554
西洋の時計は、日本に新たな機械技術をもたらした。

からくり人形は、「座敷からくり」と呼ばれる高級玩具として、公家や大名、豪商などに人気が高まりました。

豊臣秀吉が息子の秀頼を膝に乗せて、銭を入れると回るからくり人形で遊んだという話しが残っています。

「からくり人形」の全盛期

江戸時代になると、江戸時代には、「茶運び人形」「品玉人形」「段返り人形」など「座敷からくり」と呼ばれるからくり人形が人気を呼びました。

「茶運び人形」は、主人がお茶を入れた茶碗をからくり人形が持ったお盆に乗せると、人形は客人のいる所まで茶碗を運び、客人が茶碗を取ると停止します。客人がお茶を飲んで、空の茶碗を人形のお盆に戻すと、人形が方向を変えて主人の場所まで茶碗を運びます。

幻の江戸からくり 茶運び人形 (I・E・I)
茶運び人形
品玉人形『手品人形』
品玉人形
段返り人形
段返り人形

16世紀後半には、大阪の道頓堀で竹田近江が「竹田からくり」と呼ばれるからくり人形を使った芝居の興行を始めました。

竹田からくり芝居は、日本各地で公演され、多くの庶民がからくり人形の演技を楽しむきっかけになりました。その後、竹田からくりは人形を役者に見立てた演技の向上を目指す「文楽」へと発展しました。

一方、からくり人形が庶民の目に触れられるようになったことで、からくり人形は日本各地に普及し、専門の職人も現れました。

江戸時代の前期から中期の初めにかけて、「山車からくり」と呼ばれる多種多様なからくり人形を掲げた山車が各地で作られるようになりました。

山車巡業&からくり人形の実演 岩倉さくらまつり
山車からくり

現代につながる「からくり人形」の技術と文化

幕末には、「からくり儀右衛門」と呼ばれた発明家・田中久重によって「弓曳童子」や「文字書き人形」が作られました。

【東芝】弓曳童子/【TOSHIBA】Japanese clockwork doll "Yumihiki-doji"
弓曳童子
からくり文字書き人形実演
文字書き人形

田中久重は、晩年、日本初の蒸気船などの数々の開発に携わり、明治になると、現在の「東芝」の前身となる田中製造所を設立しました。

人形はもともと信仰やまじないの対象であり、神事色が強いものでした。

しかし、からくり人形が広がったおかげで、日本では、人形が人々の娯楽として親しまれてきました。

日本人がヒト型ロボットやコミュニケーションロボット、動物型ペットロボットに親しみ、憧れるのも、こうした歴史や文化の延長線にあるのかもしれません。

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